2016冬 第4話「世界自然遺産、白神山地の冬と戯れる」
※このコラムは2016年冬頃に執筆されたものです。
まだ誰の足跡もついていないバージンスノー。それも、本州最北、秋田と青森の県境をま たぐ世界自然遺産・白神山地の雪上を歩くと思うと胸が躍るのは私だけではないはず。次 にあきた白神地域を訪れるときには、スノーシューで白神山地を歩いてみたい。たらふく 日本酒を飲んでじゅんさい鍋を食べた夏、そう思った。
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じゅんさいを育てる水は、白神山地の雪の恵み。白瀑の日本酒も、民宿で食べた山菜も、 鍋に入っていただまこも、ハタハタから造られるしょっつるも、みんなみ〜んなこの白神 山地に降る雪の恵み。いわば、地域のいのちの源となる神聖な季節に山に入るのだ。とは いっても、山の天候は変わりやすいので携帯電話の電波も届くのか、怪しい。素人がいき なり入っては遭難するのがオチだ。そこは山をよく知る人と一緒に入るのが正しい選択と、 能代駅前にある「秋田白神コミュニケーションセンター」の後藤千春さんにガイドをお願いした。
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ガイドの後藤千春さん。白神山地に魅せられて何度も通ったあとに関東から移住。各地の山岳ガイドも務めており、さまざまな視点から白神の魅力を伝える。
白神山地世界遺産センターのある藤里町の水無沼周辺を歩く。世界遺産登録区域から東に 位置する風光明媚なトレッキングコースだ。里山の景観が美しい横倉集落の上にあり、か の江戸時代の旅人、菅江真澄もここを訪れている。
まずは、雪と親しみましょうね、と後藤さんは、歩きながらメンバーの体力や天候、雪の 具合などを見て雪の白神山地と触れるベストな方法を探っていく。少人数のグループの場 合は、歩きたい人がどんなことに興味を持っているか、体力はあるかなどということを考 慮して臨機応変に歩き方を変えていくスタイルだ。
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ストックで雪を掛け合う遊びで雪に慣れていく。気温が低くサラサラの新雪だから、雪を頭からかぶってもすぐに払い落とせて冷たくならない。
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枝から雪が落ちてくる瞬間を楽しむ。光が差し込み、雪がダイヤモンドダストのようにきらきらと輝く。そんな五感を大切にする時間を持つのも後藤さんのツアーの特色だ。
雪をさくさくと踏みしめる音がBGMとなり、心地よい。この日は晴天に恵まれた。 「あたたかい日は歩きやすいのですが、小さな雪崩がおきる心配があるので気をつけて歩 きましょうね」。白神や登山のエキスパートである後藤さんと一緒なのでそのあたりは安 心して、歩いた。雪山で注意するポイントは地形を把握していない素人にはわからないも のだ。
道中、湧き水を汲んでみた。白神山地を冠した水も販売している会社もある名水だけに、 やわらかくておいしい。白神山地は一万年近く続くブナ林が有名で、ブナは保水能力があ る樹木として知られている。そう、雪や雨が降ったあとにブナが水を受け止めてくれるか ら、このあたり一帯が“天然の水がめ”となるのだ。
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ガイドの菊池さんが水筒をかざすだけで、あっという間にあふれてしまう水量。「ランチタイムにこのお水でおいしいコーヒーを入れましょうね」と菊池さん。
杉の木立をしばらく歩いていくと、ブナの森となった。あちこちに大小の斑点がある独特 の木肌や雪の上を気にかけながら歩く。なぜならば、ここにさまざまな生き物の痕跡が見 られるから。
「野ウサギの足跡は前と後ろに飛び跳ねた感じがわかりますよね。ほら、ここにはカモシ カの足跡がありますよ」。 後藤さんにいわれて見てみると、半月の形の蹄型が雪の上に残っていた。 「カモシカのことを岩獅子や倉獅子という地方もあります。毛が青灰色に見えるので、ア オともいいますね。」。
なぜ、岩や倉がつくかというと、カモシカは天敵から身を守るた めに尾根や岩場を歩くのが得意だからだそうだ。
「倉というのは岩場のことです。ほら、このすぐ崖下の集落も横倉というでしょう?」後 藤さんの説明を聞き、地形とカモシカの生態系について頭の中にイメージができた。 他の季節には、視界に入るものが多すぎてなかなか気づけないような森の息遣い。何もか も眠っているような雪の季節のほうが感じられるなんて。
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クマのひっかき傷の残るブナの木肌。目で追っていくと相当高いところまで登っている。好物のブナの実を食べるため、木の上にクマ棚を作るのだとか。
思ったよりも歩けるな、と判断した後藤さんは、カモシカのごとく狭い尾根筋を選んで登 っていった。崖のような傾斜にびくびくしながら歩いていたのだが、突然「さ、降りまし ょう」と後藤さんが急な傾斜を滑り降りていったのにはびっくり。あれあれ、途中で転ん でそのままお尻で滑っていく!これはすっかりと雪で地面が覆われた冬の季節だからでき ることだ。
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写真ではわかりにくいが、相当な斜度をお尻で滑り降りた。これは冬の季節にしかできない、雪遊びだ。童心に戻ったひととき、みんな笑顔に。
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尾根の上で絶景を眺めながらランチ。ガイド補佐の菊池シェフによるシチューをいただきます。机と椅子は雪を掘って作る、青空雪上レストラン!
スノーシューは歩くだけの手段ではなく、雪さえ積もっていればどこにだって歩いて行け る。冬は凍っている水無沼も下の写真の通り。ただし、氷が薄いことが予測されるため恐 る恐るストックを突きながら確認し、後藤さんの許可の出た場所だけ歩いた。
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「湖の端は気をつけてくださいね、溶けている箇所があるかもしれないので」。 後藤さんの声かけに気をつけながら、バージンスノーを歩く。気持ちがいい!
今回の後藤さんのツアーは、世界遺産だから、白神山地だから、という説明はあまりない。 歩く人が内から目覚めてくる自然感覚を、まずは引き出したかったのかもしれない。ここ にしか、今しかない、自然の一瞬を自分の感覚も含めてまるごとお土産にしていってほし いという想いが伝わってきた。
ランチタイムにみんなと離れてひとりで雪の中にいる時間、雪の上に身を投げ出し、空を 眺めた。まるで森の中の動物になったようなひととき。私は白神山地に住まう、鳥をのぞ く58種の動物の一種のような気分で過ごした。
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快晴に恵まれた1日。空を見上げると、すっかり葉を落とした木の姿が。夏は鬱蒼とした森も、冬は雪と太陽で明るいので木肌や枝ぶりの観察にもいい。
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シュワッチ! 木にこんな落書きをして遊ぶと怒られそうだが、ご安心を。春になると外殻がとれるので問題なし。こんな遊びを発見して歩くと尽きない。(オオカメノキの冬芽)
実は白神山地には、旅行者がめざしやすいランドマークとなるようなものがない。藤里駒 ケ岳や小岳の頂上を目指すとしても標高は1000mちょっとで登山愛好家には高い山とはい えず、日本海側の山の風景としてはわざわざ登りに行くところとは言い難い。
「ここの魅力は、樹木のつくる世界なんですよ」。 スノーシューツアーが終わったあとに白神山地世界遺産センター藤里館に立ち寄ったら、 生まれも育ちも藤里町という白神自然アドバイザー、斎藤栄作美さんに話を伺うことがで きた。
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秋田杉をふんだんに使った内装が素晴らしい白神山地世界遺産センター藤里館は、秋田県側から白神山地を歩く入り口となる。写真や資料なども豊富。
「雪は何のためにあるのかわかりますか?」 と斎藤さんに質問され、「水を蓄えるため」と答えた私。 もちろんそれは間違いではないけど、斎藤さんはこう答えた。 「雪は樹木にとってあったかい布団と同じなんです。雪は森を守ることに力を貸していて、 彼らはそれを上手に利用しているんですよ。次のシーズンのためにじっくり休んでスタミ ナを蓄えているのが冬の森なんです」。 目から鱗!
「森は雪をどんな風に利用して生き残ってきたのでしょうかね。雪はどんな風に森を利用 してきたのか、両方の気持ちになって歩くと今の時期は気持ちがいいのか、悪いのか、自 分を森や雪におきかえて考えてみると森歩きがさらに面白くなりますね」と斎藤さんは続 けた。
もとはといえば、水源となるブナの森を守るために起こった住民運動がきっかけで白神山 地は1993年の世界自然遺産登録となった。調査に入るまでは縄文時代から続く生態系のこ とや、森の深さというものに関してはほとんどの住民は興味がなかったという。いざ、人 間の生活のためにブナを伐採するかという話から世界自然遺産登録へつながっていくのだ から、ものごとを複眼で見ることの大切さを感じずにはいられない。
白神山地を中心として営まれる生き物の暮らしは、この縄文時代から続くブナの森の恩恵 を受けている。自然はその大切さをことばでは教えてはくれないが、四季を通し、年月を 通して、じっくりと存在を見せることでメッセージを伝えてくる。恩恵を授けてくれると きもあれば大きく裏切りもする。自然と人間の間に信頼関係なんてあったもんじゃない。 でも、期待をしないでつとめて自然を観察しているとサインを送ってくれるときもある。 そのサインを見逃さないために、こうやって雪にとびこんで感覚を研ぎ澄ましておくのも 重要なことなのだろう。
春を待つ白神山地は冬眠中、ゆっくり自然と対話する雪の時間
(一社)秋田白神コミュニケーションセンター
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◎テーマにちなんで、もう1件!
クアオルトウオーキング
三種町では、ドイツで治療として行われている気候性地形療法・クアオルトを取り入れた早朝ウォーキングを行なっている。起伏に富んだクアオルトウォーキングコースは町内に5カ所。軽い運動と温泉、ヘルシーな食事によって生活習慣病や認知症、メンタルヘルスなどに働きかける。長期滞在にオススメ。
※このコラムは2016年冬頃に執筆されたものです。
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朝比奈 千鶴
トラベルライター。「暮らしの延長線の旅」をテーマに活動。2016年2月、喜久水酒造(能代市)での酒造り修行を終了し、「108代醸蒸多知」の称号を得た。各地で出会った残すべき情景をモノやコトとして編集するほか、著書『Birthday Herb 』(朝日新聞出版)では薬用ハーブのある旅と暮らしのエッセイを綴っている。
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